京都に関する簡単な知識を項目別に集めています。

・歴史
 そのはじまりは平安京以前、古墳時代にまでさかのぼる。渡来人系の豪族、秦氏が太秦の地を根拠に大和朝廷で力をもっていた。今に残る広隆寺は秦氏発願の寺といわれている。
 そののち、桓武天皇の手で都は仏教勢力の強い奈良から水陸交通の便利な京都に移された。794年の事である。この後、明治時代になって明治天皇が東京に行幸し、事実上の東京遷都が決まるまでの約1100年間、都は京都にありつづけた。唐の長安を模して作られた平安京は道が碁盤の目のように張り巡らされており、この区画は今なお京都に生きている。
 10世紀になると、藤原一族が天皇家の外戚(母方の親戚)となり、政治を主導する摂関時代が築かれる。後に記す源氏物語や枕草子、栄華物語などでその華やかさを窺い知る事が出来る。
 12世紀の白河、鳥羽、後白河の三上皇(譲位した天皇)の院政(上皇が天皇を後見しながら政治の実権を握ること)時代を経て、武士が台頭して後も京都は西の拠点として要でありつづけた。承久の乱(幕府側に移った政治の実権を朝廷がとり返そうとした事件)後の六波羅探題(朝廷監視、西国の統括の役目をおう役職)がその例である。
 武士が台頭して以来、鎌倉に移っていた政治の中心地が後醍醐天皇の建武の新政(政治刷新)をきっかけに再び京都に戻る。その後にわかづくりの政治機構と内部の複雑な人間的対立に不満を強めた武士達が足利尊氏を中心に後醍醐天皇に反旗を翻し、室町幕府をたてるに至る。
 そんな中で1467年、応仁の乱が起こった。管領家(将軍補佐)の家督争いに幕府の実権を握ろうとした細川氏と山名氏の対立があいまって、その後11年にも及ぶ大乱に発展した。この乱で主戦場となった京都は戦火に焼かれて見るも無残に荒廃した。この乱をきっかけに、将軍の権威は失墜し、世は戦国時代へと突入する。
 戦国時代の京都としてまず思い起こされるのは本能寺だろう。戦国時代でまず最初に天下統一に乗り出した織田信長が、腹心、明智光秀の謀反により討たれた場所である。その光秀も山城の山崎で豊臣秀吉に討たれる。その後信長の天下統一事業を受け継いだ秀吉は京都に伏見城や天皇を迎えるために聚楽第などの壮麗な建築物を築いている。
 江戸時代に入ってからも京都は「天子様の御膝元」として栄えつづける。元禄期には京都を中心に元禄文化が生まれた。
 幕末期においては尊皇攘夷派の志士達が京に集まり、京の町は血なまぐさい騒乱が毎日の様に続いた。京都守護職の指揮下にあった新撰組が尊皇攘夷派の志士達を池田屋で殺傷した池田屋事件や、それをきっかけにおこった禁門の変などはあまりにも有名である。この幕末の動乱を経て、時の15代将軍徳川慶喜は1867年、京都二条城にて大政奉還(政権を朝廷に返すこと)を決めた。その後も旧幕府軍が京都の鳥羽・伏見で薩摩官軍と衝突するなど最後の抵抗を見せた。
 
・文化
  京都で最も歴史のある寺は603年に秦河勝により建立された広隆寺だ。この寺は多くの仏像を有しており、なかでも聖徳太子に与えられた百済伝来の弥勒菩薩は日本の国宝第1号に指定されている。
 794年、都が京都に移ると桓武天皇は都を悪霊から守るために都の南に教王護国寺(東寺)を建立したり、鬼門の方角に延暦寺を建立するなど、数々の霊場や御霊神社を都の周りに建立していった。
 10世紀、藤原氏が栄華を極めている頃には、都に国風文化と呼ばれる純日本文化が誕生した。華やかな宮殿を舞台に藤原道長の娘で、一条天皇の中宮となった彰子の女房である紫式部が世界的にも有名な源氏物語を残したほか、同じく一条天皇の中宮定子に仕えた女房の清少納言が枕草子を書くなど、女流文学が隆盛を見せる。竹取物語や紀貫之による土佐日記、日本最古の勅撰和歌集である古今和歌集もこの時代のものだ。その他建築では寝殿造と呼ばれる日本風の建物が貴族の邸宅として建てられた。工芸では浄土教の流行に伴い、定朝など有名な仏師が多くの仏像を残した。宇治の平等院の阿弥陀如来像はその代表作と言える。
 室町時代には金閣に代表される北山文化や、銀閣に代表される東山文化が生まれた。また、武家社会では次第に臨済宗が広まり、室町幕府3代将軍足利義満は南宋の官寺の制にならい、京都と鎌倉に五山の制(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺を京都五山という)を整え、十刹の制も確立した。その後、五山、十刹は世俗に墜ち、大徳寺、妙心寺が禅の正統として栄えていく。現在伝統芸能としてさかんに演じられている能も北山文化に端を発する。観阿弥、世阿弥などの有名な能役者もこの頃誕生した。
 戦国時代の文化である安土、桃山文化は正に豪華絢爛の一言。建築の代表に聚楽第、伏見城がある。絵画では城の内部を飾り立てる障壁画が描かれる。長谷川等伯や海北友松、狩野永徳らの襖絵は有名である。
 江戸時代の京都の町は呉服屋をはじめとする大商人の本拠地が数多く軒を連ね、西陣織や京染、京焼などの高い技術を用いた手工業が発達した。その他、人形浄瑠璃の脚本家、近松門左衛門や燕子花図屏風を描いた尾形光琳、風神雷神図屏風の俵屋宗達、京焼の祖、野々村仁清、友禅染めの創始者、宮崎友禅、多才な文化人、本阿弥光悦など、数えきれないほどの文化人を輩出した。




























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